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もっと知りたいアルゼンチンタンゴ

アルゼンチン(Argentina)の誕生


アルゼンチンは、日本から見て丁度地球の反対側にあります。
ですから、四季は日本とは正反対なので、こちらの夏はあちらの冬ということになります。

19世紀(1800年代)の南米は、まだ群雄割拠していて、さながら戦国時代の様相を呈していました。(日本では江戸幕府の終焉と明治元年1868年のスタートという転機でした)

スペインの属国という地位からの脱却を目指して
1816年 リオ・デ・ラ・プラタ連合州(南アメリカ連合州)として独立を宣言。

しかしその後も国内外の領土争いや政治的な争い、土着民族からの土地収奪など、常に内戦に近い状態に置かれていました。

1826年 国名をアルヘンティーナ(アルゼンチン)に改称

国名が決まっても、まだまだ不安定な状況は続きます。
ちなみに「プラタ」は銀を意味するスペイン語で、アルゼンチンの原型「ARGENTUM」はラテン語のやはり銀という意味です。元素記号の銀もAgでしたね。

1880年 ブエノスアイレスが首都に定められる

これを機に、国内は安定し、ようやく国家としてのまとまりと、平穏を得た時期でもありました。
ここからの半世紀、アルゼンチンの快進撃が始まります。 
 
タンゴのはじまり
アルゼンチンの国情が安定すると世界中からの「人・物・金」が集まり、首都ブエノスアイレスは「南米のパリ」と言われるまでに発展します。
混沌から成熟へ、大衆文化のタンゴもまた文化・芸術へ、国内から世界へと開花していきます。

時代は前後しますが、
タンゴを形成する音楽の原型の一つと言われるハバネラは、1800年頃から。ミロンガは1860年頃に広まっていたようです。

タンゴは、今から約130年以上前(1880年頃)、首都として定められたばかりのブエノスアイレスの港町、ボカ地区(La Boca)から始まったとされています。


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しかし、既にそれ以前からこの地域にやって来た移民の人々(特にアフリカ系労働者)の過酷な境遇のはけ口として、男同士の荒々しい踊りとして始まっていたという伝承もあります。その頃(1870年頃)から既に「TANGO」という名称だったようです。
正確な文献は見つかっていませんが、既に音楽と踊りは切っても切れない関係であったことは確かです。

そのうちに娼婦を相手に踊るようになったことから、男女で踊る形式へと変化していきます。
初期のタンゴは、様々な大陸の音楽の要素が混然となっていました。(そのあたりは「サルサ」の成り立ちに似ています。興味のある方は調べてみてください。)
酒場で酔った勢いで踊られることが多かったのでしょう。当時の新聞は「下品な踊り」といった評価をしていました。そうした批判にも関わらず、下町を中心に広まって行くのです。
 
一般への普及

下品な踊りとして批判されていたタンゴも、そのままでは流行の一つとして歴史の中に埋もれていったのかもしれませんが、やがて優れた楽曲の登場により、しっかりした文化として根を下ろすことになります。
1880年代のアルゼンチンでは、譜面が残る曲としては最古のバルトーロなどが次々と作曲されます。


Buenos Aires Antiguo

一方で、優れた曲とともに演奏する楽器もまたタンゴを盛り上げて行きます。演奏する楽団にバンドネオン(という楽器)が取り入れられはじめました。
それまでは「ギター、フルート、バイオリン」といった編成が中心で早いテンポでしたが、バンドネオンの登場により飛躍的に表現力が向上すると同時に、楽器の演奏特性ゆえのゆったりとした音楽へと変化していきました。

1900年頃には、タンゴの演奏を聞かせるカフェも誕生しています。(Cafe Concert)

1910年には最初のタンゴの学校(タンゴ・アカデミー)が設立されました。
設立者のEl Cachafazは、国内だけでなくアメリカやヨーロッパへと渡り、タンゴの普及に努めました。

この頃はまだアルゼンチンの社交界(上流階級)には受け入れられてはおらず、国民的な文化になるのは、海を渡ったフランスでの大流行によって、その価値が再認識されるのを待たなくてはなりません。
 
アルゼンチン→フランス→アルゼンチン

タンゴ・アカデミー創始者El Cachafazによる普及と同じ頃、アルゼンチンからヨーロッパに渡った芸術家がタンゴ紹介したところ、パリで大流行しました。
どれくらいの大流行だったかといえば、カトリック教会が禁止令を出すほどだったといいます。
男女が抱き合うように見える踊りのスタイルですから、お堅いカトリックの法王も黙認できなかったのでしょう。
 
1907年にはパリでタンゴのレコーディングしたアルゼンチン人も出てきます。

フランスに紹介されたタンゴは、当初はアルゼンチンから遊びに来ていた金持ちの子弟や高級芸術家が踊っていたのが、いつの間にかパリ市民に広がっていったようです。
かつてのアルゼンチンは世界でも有数の裕福な国だったのです。第一次世界大戦では戦火にまみれる事のなかったアルゼンチンから、多くの裕福な人々がパリに渡ります。
それに付随した家族の若い子や留学生が中心になって、その頃のパリで毎夜開かれる社交舞踏会にタンゴの風を吹き込みました。
 

アルゼンチンの社交界では下層界のダンスとして受け入れられなかったものの、若い世代には魅力的だったのでしょう。本国と違って世間の目を気にしなくて良いパリでのことです。
 
1925年にはF.Canaroがパリ公演に成功し、有名なラ・クンパルシータに歌詞が付けられて歌われました。


パリでのタンゴの大流行は、やがてアルゼンチンに逆輸入のような形で跳ね返ってきます。パリの社交界で受け入れられたということで、アルゼンチンの中流階級にも浸透することになります。

その間、アルゼンチンでは相変わらず下町を中心に、音楽も踊りも多くの流行や洗練を繰り返し、文化としてすっかり定着していました。そこへパリからの大流行の風を受けて、タンゴは一挙にアルゼンチンの国民的文化へと花開くことになりました。

フランスの隣国ドイツではバンドネオンが盛んに作られ、重要な輸出品となっていました。それがタンゴの普及とともに多数輸出されたので、もう無くてはならない楽器として定着したのもこの頃です。
実は初期のタンゴはギター、フルート、バイオリンで、今よりもずっと早いテンポで演奏されていましたが、このバンドネオンの楽器特性に影響されて、ゆったりとしたものになります。
「バンドネオン、ピアノ、バイオリン、コントラバス」という編成が固まりつつありました。
  
「コンチネンタルタンゴ」と「アルゼンチンタンゴ」

一度はフランスで禁止されてしまったダンスとしてのタンゴですが、正式に認めて貰うための努力をした人々もいました。
日本的に表現するならば「弁えた型」などをルール化し、自ら変質させていったのです。

一方音楽としてのタンゴも、1920年代後半からのフランスでは、既存の楽団による演奏が盛んになりました。
最初はレパートリーの一つとしてタンゴ曲を取り入れたのかもしれませんが、元々音楽性の高かった既存バンドがタンゴを演奏するとなると、それなりに芸術的な香りが混じることになります。

やがてフレンチ・タンゴは、「ゴージャスで洗練されたコンチネンタルタンゴ」へと昇華し、
「シンプルで素朴(ストレートで情熱的)なアルゼンチンタンゴ」とは別々の道を歩むことになります。

一方アルゼンチンでも、タンゴ専用のダンスホールも増え、タンゴオーケストラの編成も大きくなっていました。
それと共にスタイルやマナーもまた確立されていきます。
やがて中流家庭層にも受け入れられるようになり、欧米との地理的な距離や政治的な理由も重なって、アルゼンチン国内では半場としてのタンゴをもっと突き詰めるように発展させていきました。

アルゼンチンは国策として、第一次世界大戦で疲弊した国からの移民や労働者を多く受け入れていたのですが、男女比は20:1くらい極端に偏っていました。そうした男性のエネルギーのはけ口として、また憩いの場として、相変わらず娼婦と踊るタンゴの光景もまた健在でした。

日本で一般に受け入れられ流行したのは「コンチネンタルタンゴ」の方でした。戦前の日本の風潮を考慮すれば、当然だったでしょう。
日本では「アルゼンチンタンゴは情熱的なダンス」というイメージが強調されているようですが、それだけに一線を守る踊り手のマナーも重んじられています。
 
1800年頃 ハバネラの流行
1816年7月9日 アルゼンチンの前身 「リオ・デ・ラ・プラタ合州国」が独立宣言
1826年2月 国名 “Argentina”採用 初代大統領リバダビア
1860年頃 ミロンガ(音楽ジャンル)の流行
1870年頃 タンゴの原型が形成
1880年 タンゴ最初の楽譜 「Bartolo」を出版、これによりタンゴ元年と言われる
1900年 タンゴを聴かせるcafe-concert が流行
1903年 El Choclo 11 月初演 El Portenito (03) La Morocha (05)
1907年 Alfredo Gobbi、Angel Villordo パリでレコード録音 Felicia (07)
1910年頃 バンドネオンの登場、ピアノが参加 *Independencia (10)
1911年 Vicente Greco 楽団オルケスタ・ティピカ登場
1916年 Matos Rodriguez *“La Cumparsita”発表 *Inspiracion (16)
1917年 Carlos Gardel Mi Noche Triste”を録音 *Gallo ciego (17)
1923年 Carlos Gardel 渡仏 タンゴ楽団映画館に進出 *Mano a mano (23)
1923年 アルゼンチンでのラジオ放送開始
1925年 F. Canaro パリ公演成功 La cumparsita に歌詞が付けられヒット
1928年 Gardel パリ公演 Canaro en Paris (26) *La ultima copa (26)
1930年 Gardel のタンゴ初のトーキー映画 *Yira Yira (30)
1932年 Gardel フランスで“Melodia de Arrabal”撮影 *Melodia de Arrabal
1934年 Gardel 米国でタンゴ映画撮影 *Mi Buenos Aires querido (34)
1935年 Gardel 米国で映画“El dia que me quieras”撮影 *Volver (35)
1939年 第二次世界大戦始まる
1941年 Astor Piazzolla がAnibal Troilo 楽団でデビュー *Toda mi vida(41)
1943年 陰語によるタンゴの歌放送禁止→新しいタンゴ誕生 *Uno (43)
1945年 *Adios, pampa mia 大ヒット
1946年 ピアソラ楽団結成 *Sur (48)
1950年 初のLP(17 センチ4 曲入り)発売 50年代前半は第二の黄金期
1953年 早川真平、藤沢嵐子、刀根研二アルゼンチンへ *Taquito militar (53)
1954年 早川真平とOT 東京藤沢嵐子再びアルゼンチンへ *Tanguera (54)
1957年 経済不況によりカフェ続々と閉鎖
1958年 Piazzola ニューヨークへ移住 ‘60年帰国 *Bahia Blanca (58)
1959年 タンゴのステレオ録音始まる *Adios Nonino (59)
1961年 Francisco Canaro 楽団来日公演 *Nocturna (61)
1964年 Canaro 死去 早川真平オルケスタ・ティピカ東京 アルゼンチン公演
1965年 "Cano Catorce"開店 Verano poteno (65) Otono porteno (67)
1968年 Piazzola/H. Ferrer 作ミュージカル”MARIA de BUENOS AIRES”成功
1972年 Teatro Colon で初めてのタンゴ・コンサート *Libertango (74)
1975年 Anibal Troilo 死去
1976年 Juan D’Arienzo 死去
1977年 「タンゴの日 12月11日」制定(Gardel とJ. de Caro の誕生日)
1980年 市立タンゴ楽団結成、Carlos Garcia 指揮の同楽団来日公演
1980年 ブエノスアイレス市建立400年周年、タンゴ誕生百年記念
1981年 Gartieri 陸軍総司令官大統領就任
1983年 “Tango Argentino“ パリで初演 85年 NY 公演成功
1989年 国立タンゴアカデミー設立
1990年 FM タンゴ放送開始
1992年 Astor Piazzolla 死去
1995年 Cable TV Channel “SOLO TANGO”始まる
1997年 "Forever Tango"Broadway でロングラン達成 ‘99年来日公演
1998年 日本アルゼンチン修好100 周年
2000年 「バンドネオンの日 5 月18 日」制定 (A. Troilo の命日)
2000年 12 月12 日Libertad Lamarque92 歳メキシコで死去(日経夕刊記事)
2000年 9月「タンゴ博物館 (Museo Vivo del Tango)」開設
2002年 初のタンゴ・ミュージカル “Tanguera”ブエノスアイレスで初演
2009年 9月 UNESCO タンゴを無形文化遺産に登録

アルゼンチンタンゴの用語集

アブラッソ[abraco]
直訳すると「抱擁」
タンゴでは踊る時の男女の組み方。


アルゼンチン


ヴィラウルキサ[Villa Urquiza]

ブエノスアイレスの地区の一つにちなんで名づけられた、タンゴのヴィラウルキサスタイルは、通常、2つのダンサーが別々の軸を維持し、抱擁の握り手に向かって探して直立体の姿勢と踊っている。
抱擁は、一般的に閉鎖されたが、カップルはターンを収容し、女性がもっと自由に回転できるようにするため、わずかに抱擁を緩める。
多くの女性は、独立して、彼女の上半身の巻を通して腰を回転させ、より少ない抱擁を緩めする必要があります。 両方のダンサーが握りしめた手に目を向けるので、抱擁、女性の左肩が彼女の左肩が彼の右にするよりも、男の右肩に近いもので、わずかV、の印象を作成することがあります。
名前にもかかわらず、スタイルはブエノスアイレスの地区の多くの全体に踊らされ、時にはと呼ばれている「タンゴエスティロ・デル・バリオ。」 アルゼンチンの外では、スタイルが広くとして知られている「サロンスタイルのタンゴ。」

オーチョ(オチョ)[ocho]基本ステップの名称。直訳では数字の「8」。
8の字を描くように動くステップ。

・オーチョ アデランテ[ocho adelante]:
 前進オーチョ

・オーチョ アトラス[ocho atras]
 後退オーチョ


オリレーロOrilleroスタイルタンゴ

Orilleroスタイルのタンゴは、名前は、ブエノスアイレスの貧しい離島連立の路上で、その起源を持っていたかもしれないことを示唆しているタンゴの古いスタイルです。 後にそれは女のエッジの周りの男の踊りを参照するために来た。 いずれの場合も、orilleroスタイルのタンゴはタンゴの黄金時代の間に、中央ブエノスアイレスの洗練されたサロンで許容できると考えられていなかった。
orilleroスタイルのタンゴはまだそれをよりタンゴのヴィラウルキサスタイルのようになってい踊らされる限り。 それは、ダンサーが別々の軸を維持しながら直立体の姿勢と踊っている、と抱擁は、一般的にVにオフセットされており、近いかオープンのいずれかになります。 ターンでは、女性は彼女の腰と胴体の間に多くの独立した動きを必要とせずに自由に移動し、ピボットさせることができる。 orilleroスタイルのタンゴが近い抱擁で踊っているときに、カップルはターンに適応するためにわずかに抱擁を緩める。 女性が独立して、彼女の上半身の巻を通して腰を回転させた場合、抱擁は限り緩めする必要はありません。 それは常にダンスの行を尊重しない遊び心、スペースを消費装飾や図形を追加するためOrilleroスタイルのタンゴは、サロンスタイルのタンゴとは異なります。 遊び心の要素の多くは、に実行されているRIC-TIC-チックリズムファン・ダリエンソとロドルフォ・ビアジの音楽を特徴づける。


オルケスタ・ティピカ[orquesta tipica]
「標準的な楽団」の意味。アルゼンチン・タンゴに限らず,ラテン・アメリカの各種の音楽で使われる。
それぞれの国や民俗音楽のサウンドを作り出すための楽器編成。
アルゼンチンタンゴでは
「バンドネオン2~6人」
「バイオリン2~6人」
+「ピアノ、コントラバス」を加えた合計10人前後の編成が一般的。


カミナンド[Caminando]
「歩く」と言う意味。


ガンチョ[gancho]互いの足を絡める・絡まる。
直訳では「鍵」


カベセオ[Cabeceo]

視線 を送って相手を踊りに誘う合図(アイコンタクト)
踊りたい人の方を見て、視線が合えば成立というスマートな交渉です。


クニータ[cunita]前後運動のステップ
直訳は「揺りかご」


クラブスタイルタンゴ

クラブスタイルのタンゴは、リズミカルな感性があるmilongueroスタイルのタンゴを 、それはより多くの直立姿勢、別々の軸との密接な抱擁使用してヴィラウルキサのタンゴのスタイル。
カップルは、女性が彼女の腰と胴体の間に多くの独立した動きを必要とすることなく、より自由にピボット回転させることができるように自分のターンに少し彼らの抱擁を緩めことがあります。
女性は背中の角度で独立して、彼女の上半身またはステップのターンを通して腰を回転させた場合、抱擁は限り緩める必要はありません。
クラブスタイルのタンゴは、一般的に踊らされているRIC-TIC-チックリズムファン・ダリエンソとロドルフォ・ビアジの音楽で顕著であり、また、他の多くのタンゴオーケストラの演奏で発見された。
クラブスタイルのタンゴは、オーチョのコルタとmilongueroスタイルのタンゴで発見され、他のリズミカルな数字を使用しています。
おそらくタンゴのヴィラウルキサスタイルのリズミカルな変動は、一部の人々は、スタイルのミッシュマッシュではなく個別のスタイルとしてクラブスタイルのタンゴと考えています。
クラブスタイルのタンゴは時々ブエノスアイレスの中心部での現在の使用を参照し、タンゴエスティロ・デル・セントロとして識別されます。


コルティーナ[CORTINA]ミロンガ(パーティ)で、タンダ(Tanda)とタンダの間に流れる非常に短い曲。
パートナーチェンジの合図。コルティーナが流れた時はフロアを一旦空ける。
直訳は「カーテン」


コンチネンタル・タンゴ
アルゼンチンタンゴに対して、ヨーロッパ(ドイツ,フランス,イタリアなど)で作曲もしくは演奏されたタンゴで「ヨーロッパ
・タンゴ」と言われることもある。
アルゼンチンタンゴほど激しくはなく、メロディを重視した曲が多い。日本に輸入されたものは比較的こちらが多い。


サカーダ[sacada]足の動作で「払う」


Escenario(ステージタンゴ)

用語「タンゴescenarioは「ステージショーで踊ったタンゴを意味します。
このスタイルは、もともとヴィラウルキサのイディオムやタンゴのorilleroスタイルから描きましたが、今日もヌエボ・タンゴの要素が含まれています。 タンゴescenarioは誇張された動きや社会的なタンゴの語彙の一部ではありません(多くの場合、バレエから撮影)追加的な要素を備えたオープン抱擁で踊っている。 カップルはヴィラウルキサスタイルで互いのスペースに関し、方法は、タンゴの動きは、一般的に、よりモダンダンスのように接地されているにもかかわらず、自然の中で非常にバレエであるため、バレエの要素は、タンゴのヴィラウルキサスタイルとうまく統合。 多くの人々は、展示タンゴのすべての形態を指すファンタジア 。


タンゴ [tango]四分の二拍子、または八分の四拍子の曲。また、それに合わせて踊る社交ダンス。甘美で情熱的な旋律を持つ。
19世紀末に民俗音楽の融合から生まれたアルゼンチンタンゴは、20世紀初頭にはヨーロッパに紹介され、洗練されてコンチネンタルタンゴとして別の発展を遂げ、世界中に広まった。


タンゴ・デ・サロン[Tango de Salon]

用語「タンゴ・デ・サロン」を含む社会的なダンスの様々なスタイルを指し、 ヴィラウルキサ 、 milongueroとクラブスタイル (のようなサロンで社会的に踊ったのではなく、展示会のためにしているタンゴファンタジアやタンゴescenarioのように()または不適切な会場でorillero )。 伝統的なタンゴ・デ・サロンは、ダンサーがダンスの行のために敬意を行使することを必要としますが、抱擁と特性の動きは、個々のスタイル全体に大幅に変化することができる。
アルゼンチンの外で、時には「サロンスタイル」と呼ばれるものタンゴはを参照することができるヴィラウルキサ 、 タンゴファンタジア 、 タンゴescenarioまたはこれらのスタイルのブレンド。 ブレンドされたスタイルは、ヴィラウルキサスタイルよりも顕著でVとの緩い抱擁を持つことができます。 パートナー間のより大きな距離は女性がより自由になり、ピボット腰と胴体の間に多くの独立した動きを必要とせずに実行することができます。 緩い抱擁は、派手な動きに対応しており、多くのオブザーバーは展示会のためにのみ適して検討するとスタイルのブレンドにつながる可能性があります。


タンダ[Tanda]
ミロンガでは、似たテンポの3~4曲を1まとまりにして演奏または流します。
このまとまりをタンダと言います。
タンダの合間には全く異なる曲を入れて、次のタンダに移行しますが、この合間に掛る曲を「コルティーナ(コルティナ)Cortina」と言います。


ヌエボタンゴ[Nuevo Tango]

最初に考案されたとして、ヌエボタンゴはタンゴの要素間の接続が検討される可能性があり、新しい組み合わせやステップパターンを見つけることができる。
それを通してダンスの構造解析を強調したタンゴに教育的なアプローチはほとんどなかった。 それらの可能性を探求ダンサーの中には、徐々に非常に直立姿勢、自分の軸を維持するダンサーに大きな重点を置いて、オープン緩いや弾性抱擁で踊っているスタイルにヌエボタンゴを開発しました。
タンゴヌエボ一部の支持者が具体的な数字の上に、その構造解析を強調したが、スタイルの最も識別可能な人物の一部が転覆オーチョ、CADENAS、リニアboleos、volcadasと最高の緩みや弾性抱擁で達成されたスピン - そのほとんどが単一の軸である。


パラーダ(パラダ)[parada]男性側から女性の足を停止させる


バンドネオン[bandoneon]
主にタンゴで用いられる楽器。
一見アコーディオンに形が似ているが、ピアノのような鍵盤ではなくボタンで、これが蛇腹の両側に付いている。
アコーディオンを元にドイツで考案された。


ピボット
基本動作の一つ。胸の位置を動かさずにミゾオチ辺りから下を回転させる動作。


ヒーロ[giro]
サイドステップとオーチョを組み合わせたステップの名称。
直訳は「回転」

・ヒーロ バシコ パラ デレーチャ[Giro basico para derecha]
 右向回転

・ヒーロ バシコ パラ イスキエルダ[Giro basico para izquierda]
 左向回転


ファンタジア(ショータンゴ)

用語「タンゴのファンタジアは「タンゴの歴史の一部で、そのルーツを持っているそのすべてがタンゴのヴィラウルキサスタイルに主に描画しますが、より広範囲に装飾を使用し、劇的なポーズ、GANCHOSと高いboleosが追加されますダンスの展示スタイルを指した。
このスタイルは、ミロンガでの社会的なダンスで休憩中の展示会で使用するために開発されたが、ステージに運ばれました。
ステージスタイルはタンゴの語彙外の要素を加えることによって進化したように、一部の人々はその結果を区別タンゴescenario 。 多くの人々は、ファンタジアとして展示タンゴのすべての形態を参照してください。


ブエノスアイレス
アルゼンチンの首都


プラクティカ[Practica]
参加者同士の練習会(自習会)で、レッスンとは異なる。


ボカ[Boca]
ブエノスアイレスの古くから港湾地区で、タンゴ発祥の地と言われている。
カラフルな家並みなど、観光地としても有名。


ボレアーダ[Boleada]またはボレオ[boleo]
ステップの一つで、後ろに足(主に膝から下)を跳ね上げる動作。
直訳は「投げる」


ミロンガ[Milonga] ⇒ 二つの意味があるので使い分けに注意。

1)アルゼンチンタンゴのリズムのひとつで2拍子の軽快なダンス。
基本リズムの種類は大きく分けて4つ。
「タンゴ(4拍子)」「ワルツ(3拍子)」「ミロンガ(2拍子)」
※現代風のタンゴを「ヌエボ」と呼んで一線を引いて分けることもある。


2)アルゼンチンタンゴの「ダンスパーティー」のこと。


ラ・クンパルシータ[La Cumparsita]
ウルグアイの音楽家Gerardo Hernan Matos Rodriguezにより1919年に作曲されたタンゴの名曲。


リック-チックチックリズム

RIC-TIC-ticがファン・ダリエンソ、ロドルフォ・ビアジ、および他のいくつかの黄金時代のオーケストラの音楽に顕著であるスタッカートのリズムのための擬音語である。
ピアノの上のビアッジと、D'アリエンツォのオーケストラは、RIC-TIC-チックリズムで1930年にデビューした。 いくつかは、2×4のようにRIC-TIC-チックリズムで音楽を説明しているが、この音楽の特徴リズムは、実際には、単一の時間と二重時間リズムの交代をもたらし、アクセントビートの変動を??通じて作成されます。
たとえば、音楽は(太字はアクセントビートを表します)1及び2と、1と2と、1と2と、1と2とを果たした可能性があり、そしてダンサーは遅い、遅い反応するかもしれません。
クイック、クイック、遅い。 ゆっくり、ゆっくり。 スロー、クイック、クイック 。
一つは、1つ、2つ 、この音楽のchararacteristic stacattoリズムを表現するかもしれない。
RIC、チック、チック。 一つ、二つ。 RIC、チック、チック 。

いくつかのタンゴは、より複雑なリズムとダブルタイムスタッカートのアクセントの長いフレーズを含む。
ファン・ダリエンソの「エル・Fleteは「1と2と1と2と、1と2と1と2と、1と2と1と2のリズミカルな姿が含まれていると、1と2と1と2と 。 リズミカルな図は厳しいと急速な火災遅く、一時停止となり、遅い、一時停止していることをアクセントに厳密に付着したダンサーのために。
クイック、クイック、クイック、クイック、スロー、一時停止。 ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり。 クイック、クイック、クイック、クイック、スロー、一時停止 。
半分の速度で音楽を取ってダンサーのために、リズミカルな図はおなじみの遅く 、一時停止となり、 遅い 、一時停止、 迅速 、迅速な迅速な 、迅速な、 遅い 、一時停止、 ゆっくり 、ゆっくり、 ゆっくり 、ゆっくり、 素早く 、 迅速に 、迅速に、 迅速、 遅い 、一時停止 。


ワルツ[Vals]
基本リズムのひとつで3拍子の優雅なダンス。

アクセス

東京都豊島区北大塚 1-34-8
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